Realtime Press タイトル
blog

4月6日

| コメント(0)
タンザニアからの帰還難民

タンザニアから帰還してくるルワンダ難民 1996年

もう一昨日になってしまいましたが、4月6日は私にとって忘れられないない日です。
18年前の1994年4月6日。アフリカのルワンダで同国と隣国ブルンジの大統領が乗った飛行機が撃墜されました。当時アルバイトをしていたホテルの食堂で偶然見たそのニュースで私の人生は大きく変わったのです。

「両国大統領を始め搭乗者は全員死亡。犯人は分かっていません」と冷静に語るアナウンサーの声を聞きながら、エチオピア・モロッコと取材に大失敗し「もうアフリカはこりごり」と思っていた私は、その時「またこれで戦争か」程度にしか感じず、全く関心がありませんした。
しかしその一年後、何となくアフリカが恋しくなった時、なぜか頭にその時に見たニュース映像が浮かんだのです。

そして内戦終結から1年半ほど経った1995年12月。
見えない何かに導かれるようにルワンダの地を踏み、現地で活動していた日本人の方々や、虐殺を逃れた人々、荷担した人々、そして殺害された人々に多くの事を教えられ「ジャーナリストをライフワークにする」と思い定める事が出来たのです。

あれから18年。
「アフリカの奇跡」といわれる発展を続けている現在のルワンダには、虐殺記念館などを除き、目に見える形で当時の傷跡はどこにも残っていません。
しかし人々の心から「あの悲しみと苦しみ」を消し去るには、まだまだ時間が必要だと思います。

残念ながらルワンダを含むアフリカ大湖地域は、ここ最近色々と焦臭いニュースがまた多くなってきていますが、18年前の悲劇を繰り返さないよう「自分にできることを精一杯やらなければ」と思いを新たにするとともに、ルワンダ内戦で亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りします。

映画「マシンガン・プリチャー」

| コメント(0)

2月4日から公開される映画「マシンガン・プリチャー」へのコメント依頼を配給会社の方から頂き、昨日、原稿作成のため送付してくださったDVDを拝見しました。
(同映画の重要な要素の一つとして、私が2000年から継続取材しているウガンダのゲリラ組織LRA〔神の抵抗軍〕が出てくるため、お声かけしてくださったようです)

簡単に映画の内容をご紹介すると――
「あるきっかけで神を信じるようになり更生した元麻薬売人のアメリカ人が、更生の過程で偶然知ったLRAの脅威に晒されている子どもたちを救うためアフリカにわたり、様々な紆余曲折そして葛藤を抱えながらも自分の信念を信じ、自信の手に銃を持ち戦うことで子どもたちを救い・守る」
というストーリーです。

このように書くと、正義の象徴である主人公が悪と戦う「よくある勧善懲悪な映画」と思われてしまうかもしれませんが、この映画が違うのは、主人公は決して正義ではなく、そしてその行動も「正しいとも間違っているとも言い切れない」こと、そしてすべてノンフィクションであることです。

実は私もウガンダ北部の取材中に主人公が感じたのと同種の無力感や葛藤を抱いた事があり、「人類なんて滅びてしまえばいいのに。ジャーナリストなんて仕事、誰も救えないじゃないか。もう死んでしまいたい」と世界と自分に絶望したことがありました。

幸い気持ちが底の底に落ちきる前に、リハビリセンターで「元子ども兵士」だった子どもたちの「生きたい」「なんとしても生きるんだ」という姿をに救われ、今も生きながらえ、細々とですがジャーナリスト業を続けることができています。

そのためこの映画にはとても感情移入ができ、「自分が正しいと思えることを見い出し、実際に行動に移した」彼に対し(賛否両論はあると思いますが)、尊敬の念と敬意を抱きました。

一人の男の生き方を通し、「今の世界が抱える矛盾」・「人間の命」・「人生の歩み方」を考えるきっかけになる、とても素晴らしい映画です。
(感情移入しすぎているため表現がちょっと大げさかもしれませんが…)

もし興味をもたれた方がいれば、是非見ていただきたいと思います。

【映画公式サイト】→「マシンガン・プリチャー」

【Photo Gallery 】→子ども兵士

 

(追記)
映画「マシンガン・プリチャー」に関してもう一つ。

エンドロールでご本人の顔写真が出てくるのですが、それを見て遠い私の記憶の中でずっと引っかかっていた事が解決しました。

あれは2002年か2003年頃だったと思うのですが、当時のウガンダ北部はまだLRAの脅威が色濃く、夜になると1万人を超える子どもたちが襲撃を恐れ周囲の村から北部最大の町「グル」に避難してきており、日中でさえ、グルの町から出るには軍のエスコートが必須という時代でした。

ある日の夕刻、取材を終えてホテルに戻る道中で立ち寄ったキオスクで、砂糖やソーダ・ビスケット・クッキングオイルなどを「超大人買い」してピックアップトラックの荷台に次々と積み込む、丸太のような腕に入れ墨をした人相の悪い一人の白人と武装した黒人の集団と出くわしました。

とにかくその雰囲気が異様で、「目を合わせちゃいけない…。目があったら何されるか分からない」と怯えた私は慌てて車に戻り、その一行が最も危険だといわれていたスーダン国境に続く道に、夕闇の中荒々しく立ち去って行くのをサイドミラー越しに見送ったのです。

その後キオスクの主人に尋ねてみると、「ああ、あれはどこにも所属しない個人の軍隊みたいなもんだよ」といわれ、「賞金稼ぎみたいなもんか。それにしてもこの時間から町の外にでるなんて自殺行為じゃない?いったい何者なんだろ?」と、ずっと頭の片隅に引っかかっていたのです。

エンドロールの写真、まさしくあの時に見た人相の悪い白人、チルダースさんご本人でした。

軍人でもめったに感じることのない「触れただけで叩きつぶされそうな圧倒的なオーラ」、映画を見て納得しました。

人間の命の重さ

| コメント(0)
アフリカで取材をしてきて「過去に何度も何度も直面してきた壁」で、自分なりの答えがあったはずなのに、また迷いの袋小路に入ってしまいました。

実は先週の火曜日(11月30日)夜、滞在中の専属ドライバーとしてウガンダで旅行会社を経営する11年来の友人スティーブンが付けてくれていた男性が、私と別れ自宅に戻る道中、自動車強盗に襲われ右後頭部頭蓋骨陥没骨折の重傷を負いました。

彼には以前も何度かドライバーとして仕事をしてもらったことはあったのですが、身長165センチくらいで痩せ形、ウガンダ人としては小柄な部類に入る彼の印象は、無口なことも相まって正直あまり残っていませんでした。

しかし、今回会った時「つい先週、二人目の子どもが生まれたばかりなんですよ」と嬉しそうに語る彼の表情からは無垢な幸せがあふれ出ていて、「この人は信頼できるかも」と好印象を抱きました。 事実、事故に遭うまで約10日間毎日一緒に行動していたのですが、その仕事ぶりは非常にまじめで待ち合わせ時間にも正確。日当以上のお金を要求することもなければ一度もお釣りを誤魔化した事もない。そして肝心の運転技術も悪くない。とても信頼の置けるドライバーでした。

事件があった日、私はいつジェネラルから連絡がきても良いようにホテルで待機していたのですが、ホテルの立地がゴミゴミした場所にあるため、生憎ホテルおよび周辺にも駐車場がなく、彼には車を止めておける少し離れた郊外で待機してもらっていました。

時間が18時半になり、もう今日はダメだと判断した私は日当と明日ホテルにくるためのガソリン代を渡すため彼にホテルに来るよう伝えました。しかしいつもは10分程度で到着の連絡があるのにその日は30分以上経っても現れません。

事故でもあったのかと心配になり電話をかけると「すいません、なんか凄い大渋滞で全く車が進まないんです。急いだ方が良いなら、車はどこかに停めてバイクタクシーで向かいます!」と、周囲で鳴り響くクラクションに負けないよう焦った声を張り上げていました。

後はご飯を食べて寝るだけだった私は「特に用事があるわけでもないから、こちらは何時でも良いから、あなたに便利な方を選んでもらって良いよ」と伝え、彼は車でホテルに来ることを選びました。

彼がホテルに到着したのは19時45分。 もし今日ジェネラルに会うことになっていた場合、連絡から到着まで1時間以上かかってしまっては待機してもらっている意味がないので、「すいません、遅くなって。まったく車が動かない大渋滞で――」と謝罪する彼の言葉を遮り、「どこにいたの?こんなに時間がかかるといざというときに困るから、もう少し待機場所を考えて」とちょっと強い口調で伝えました。
そして20時前、日当とガソリン代を渡し翌日9時にホテルに来るよう指示し別れたのです。

しかし翌朝、9時どころか10時になっても彼は現れず、しかも何度電話をしても携帯電話が繋がりません。

「遅刻は仕方ないけど電話をずっと切っているなんて。残念だけど、彼もよくいるドライバーと同じだったのかな……」と失望した私は、彼の到着をあきらめ、タクシーでジェネラルの元に向かいました。

ジェネラルとスムーズに会え、さらにソマリア行きの許可も降り気分が良くなった私は「まあ、一回くらいは許してあげよう」と、14時頃、ちょっと遅いランチを取りながら「午後からで良いから来て」と伝えるため、再度彼の携帯に電話をしました。 が、依然「この電話は圏外にあるか電源が入っていません」というアナウンス。

「なにやってるんだろ?何か急に他の仕事でも入ったのか、それとも携帯を無くしたのかな?」
ふと気になり、何か知ってるはずだと思いスティーブンに電話をしました。 そしてそこで初めて、彼が前夜の帰り道自動車強盗に遭い、生死の境を彷徨っていることを知ったのです。

「多分彼はもうダメだと思う。深夜2時頃、路上に倒れてる彼を警察が発見し、病院に運び込んだそうなんだ。襲われたのは昨夜21時頃らしく、どうやら強盗を車に乗せてしまい走行中に大きな石で殴られたらしい。車は近くの路肩に突っ込んだ状態で発見されたんだけど、フロントガラスは割れフロントグリルもボロボロ。だから強盗も車を持って行くのはあきらめたみたいだ。ただ、彼が持っていた現金や携帯など金目の物は全て奪われてたよ。そして運転席と後部座席に彼のものと思われる大量の血溜まりが……。意識もないし医者も多分ダメだといってる」そう話すスティーブンの声は今まで聞いたことがないほど重く沈んでいました。

驚くと同時にまず最初に私が考えたのは「なんで車強盗の危険性が高いことが分かり切っている夜のエンテベロードで彼は車を止めたのか?」ということでした。

その行為は自殺行為であると、外国人の私でさえ知っています。地元民の彼にとって、そんなことは常識過ぎる常識のはず……。しかも知らない人間を車にのせるなんて、絶対にあり得ない。

「なぜ?なぜ?」頭の中で疑問ばかりが押し寄せてきました。

「私にもなぜ彼が夜のエンテベロードで車を止め、知らない人間を乗せたのか分からないんだ。ただ同じ日に数件同様の事件が起きて被害者が出ているから、組織的な犯行みたいだよ」。
スティーブンを始め警察も犯人にまったく目星はついておらず、今もすべては謎のままです。

残念ながらウガンダだけでなくアフリカの大半の国では、日本や他の先進国のように一般の人々が十分な緊急治療を受けることは、ほぼ不可能です。 彼の場合も同様で、病院に運び込まれた時に診察した医師は、意識のない状態に加え陥没した頭部の傷口と大量の出血などから「もう助からない」と判断し最低限の処置をしただけだったようです。

しかし不幸中の幸いで、他の被害者がバールで殴られていたのに対し彼は大きな石で殴られただけだったため、なんとか翌々日には持ち直し危険な状態を脱しました。

ところが今週になり、彼が頭部の異常を訴えたためCTスキャンを撮っ たところ、初期治療が不十分だったため、手術をして問題を取り除かないと四肢に後遺症が残ったり、最悪の場合は容態が急変する可能性があるということが判明してしまいました。

保険制度が浸透していないウガンダでは、その手術に要する費用は平均年収(約460ドル/世銀 2009)の数年分にもなり、とても彼の家族が負担できる金額ではありません。 しかし、日本人の私にとっては、気軽に出せる金額ではないものの、絶対に不可能な金額ではなく……。

この数日間色々と考えた結果、詳細な情報を医師に確認した後、彼の手術代を負担することにしました。

と、この結論にまっすぐ辿り着いたなら自分的には救われたのですが、数日悩み、さらに決めた今もまだ心がモヤモヤしています。

一年に一度しか来られない取材で身動きが取れなくなり、さらに16年間毎年続けて来たルワンダ訪問をあきらめる――。

頭では、「一人の人間の人生」と「わずか一度の取材」では、どちらが大切なのかすぐに判断できます。 しかし……。

今回の決断において最大の要素となったのは「私の決断がもう少し早ければ、彼は事件に出くわさなかった可能性が高い」「長時間一緒に過ごし情が沸いていた」「生後間もない赤ちゃんと不安に崩れ落ちそうなご夫人と会った」の3点です。

しかし――、 もし事件に巻き込まれたのが彼ではなく、数度顔を合わせただけの人だったら? もし彼に家族がおらず独り身だったら? もし彼の事故が自分と全く関係ないところで起きていたとしたら? もし最優先で考えている取材をあきらめる必要があったら?

延々と「if」が頭に浮かび、久しぶりに心の奥底にある薄暗い袋小路で、自分の本質と長時間向き合いました。

結局、明確な結論は今も出てませんし、永遠に出会えない可能性が高そうですが、改めて「アフリカ」と関わっていく難しさと、「アフリカ」に来て取材している意味を考えさせられました。

今はとにかく、彼の手術が無事に終わることを心から祈っています。


■地元の新聞に掲載された記事。一枚目の写真が彼
(※傷ついた被害者の方々の写真がそのままの姿で掲載されているので、血が苦手な方はクリックしないでくだい)
Bukedde.co.ug のサイトへ

20年目の初サファリ

| コメント(0)
サバンナ

えっ、今まで1回もサファリに行ったことないの?!それはアフリカに関わる人として、ちょっとまずいんじゃないの~。広大な自然と野生動物たちを生で見ると、またアフリカを見る目が変わるから絶対に行ったほうがいいよ。

以前から何度も複数のアフリカ関係の知り合いに言われてましたが、生憎なかなか機会がなく、今まで見たことあるのは――


・ケニアの空港からナイロビ市内に向かうタクシーの中から見た、空港そばにあるナイロビナショナルパークのキリン(豆粒くらいの大きさ)。

・15年前に訪問したウガンダ国境沿いのルワンダ北部の草原で見たシマウマ数頭(タバコの箱くらいの大きさ)。

・子ども兵士の取材でいつも通るウガンダ中部を横切るナイル川にかかるカルマ橋近くに住むバブーン(間近で見られるが、日光いろは坂の猿なみに人間の物を奪いに来る。けっこう危険なヤツ)。

・中国人医師の肩書きで潜入したコンゴ民主共和国のガランバフォレスト(世界遺産)で見た、全長20センチくらいの鮮やかなスカイブルーの毒蛇の死骸。

・昨年ナイル川湖畔に建設中の豪華ホテルを見学中に20メートルほどの距離から見たカバの目と背中。

あとは、町中や道路を自由に歩く牛・山羊、鳴き声と新鮮な糞だけで姿は見たことないバッファローくらいでした。(マウンテンゴリラだけは、何度も何度も間近で見ましたが

アフリカの地に足を踏み入れてから20年目にして、今回、諸々の状況がうまく重なり、ついに初サファリに行ってきました。

なるほど確かに、「これがアフリカだ!」といわんばかりの遠く遠くまで広がるサバンナ。 そして、そのパノラマビューのそこかしこに野生動物が!!

ボホールリードバック

シャープな体のボホールリードバック

バッファロー

いぶし銀の渋い雰囲気が漂うバッファロー

カバ

やっぱり日中は目と背中しか見せてくれないカバ

ゾウ

突然木の陰から現れる重量感あふれるゾウ

キリン

遠い昔、日本の動物園で見たままの巨大なキリン

ゾウ

胸まで川につかりながら食事をするゾウ

ナイル川の源流

ナイル川の源流

そこには20年間見たことのないアフリカが広がっていて、改めてアフリカの魅力を知りました。(いや~、感動&興奮しました!!サファリに行くべきだと勧めてくれたアフリカ関係者の方々。皆さんの仰るとおりでした。ありがとうございます)

さて肝心の取材なのですが、子ども兵士関連の取材するため、ソマリア(可能であればLRAのいる中央アフリカも)へ従軍するため、現在重要人物数名とコンタクト中です。 昨年よりは順調にいっているので、早ければ数日以内には日程が確定できるかもしれません。(というか、確定したいです…)




【おまけ】

ご存じの方も多いかも知れませんが、アフリカにも動物園があります。 ここウガンダにも空港そばにあり、子ども達が学校の課外授業の一環で来ていたりします。
アフリカに住んでいても、基本的にはお金を出してサファリに行かなければ、主立った動物は見られません。
そのためアフリカに生まれ育った人々の中には、ライオンやゾウ・キリンなどを一度も生で見たことがない人も多いそうです。

アフリカの動物園

遠足で動物園を訪問し、チンパンジーを見て興奮する小学生たち。

祝! 南スーダン独立

| コメント(0)

昨日2011年7月9日。
南スーダンが無事に独立を果たしました。

私が南スーダンを訪問したのは2005年6月。
当時南スーダンの首都はまだ決まっておらず、「現在の首都『ジュバ』かそのやや北側に位置する『ルンベック』のどちらかになる」といわれていて、私は自身の日程上、フライトの便が良かった「ルンベック」を訪問することにしました。

現地ではテントホテル(敷地内に張られたテントを部屋と呼ぶホテル)に宿泊し、その暑さにヘロヘロになりつつも、帰る頃にはすっかり南部スーダンのファンになってしまいました。
なぜなら、長期間紛争と共に生きてきたはずの人々の雰囲気が、他のルワンダやウガンダ北部とはまったく違い、とても穏やかで取材をしていて心地良かったからです。

以前から他のジャーナリストや援助関係者たちに話しを聞いていると、一番好きな国に南部スーダンを挙げる人が多かったのですが、実際に現地に行き、とても納得しました。

以下の写真は、幻の首都になってしまった2005年当時のルンベックです。
ダルフールを含めLRA(神の抵抗軍)が跋扈している南西部の不安定要素、南北スーダン間の石油利権分配や領土問題など、スーダン情勢はまだまだ予断を許さない状況ですが、なんとか平和裏に新しい国造りが進んでいくことを切に祈ります。

広大なスーダンの国土

南スーダンの国土は広い。ナイル川近辺は多くの緑に覆われているが、同時にブッシュと呼ばれる乾いた大地も果てしなく広がっている。

放置されたままの戦車

そられた戦車の残骸。当時は、長期にわたる紛争の傷跡が目に見える形でそこかしこに横たわっていた。

地雷ポスター

当時はまだそこかしこに多くの地雷が埋まっていたため、人々が集まる場所には必ずこのポスターが貼ってあった。

エアドロップをするWFPの航空機

対戦車地雷が多数埋められていた南スーダンでは、広大な国土も相まって食料の運搬が容易ではなかった。そのため国連世界食糧計画(WFP)は航空機から食料などを投下することでその任を果たしていた。

エアドロップで投下された食料

エアドロップは、事前に時間と場所を地上スタッフと綿密に打ち合わせした上で、数度分けて投下する。地上に落ちてきた食料は直ちに地上スタッフたちにより拾い集められ、その後地域住民に分配される。

家を建てる帰還難民

先祖代々暮らしてきた土地は人々にとって特別な意味を持っている。紛争で跡形もなくなってしまった自分たちの村。しかし長期間難民として異国で暮らし、疲れきっているはずの人々の背中には喜びと希望が漲っていた。

マーケットの様子

当時のルンベック最大の市場。見た目は貧相だが、終戦を機に隣国ケニアから多くの商品が持ち込まれ、現地の人々が生活するために必要な物はだいたい揃うようになっていた。

マーケットで魚を売る少年たち

小さな小さな干し魚。しかしこれも立派な商品。

青空学校で数学の勉強をする元子ども兵士の少年たち

青空学校で数学の勉強をする元子ども兵士の少年たち。1983年~2004年まで続いた内戦により、兵士としての生活を余儀なくされていた子どもたちは、学ぶことに飢えていた。

手を振るガールズスクールの少女たち

BBCのクルーと一緒に訪問したガールズスクール。終戦直後で外国人が珍しかったからか、カメラを向けるとすぐに人だかりができて撮影が進まず、BBCのクルーと相談し、一方が囮になり派手なパフォーマンスで注意を引きつけ、その隙にもう一方が撮影をすることにした。これは私が囮の時に撮った写真。でも今ではお気に入りの一枚。