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紛争地を取材するということ

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山本美香さんがシリアで亡くなられた事件、非常にショックで、ここ数日自問自答を続けていました。

遠い昔に一度簡単にご挨拶させて頂いた事しかなかったのですが、各種メディアを通して常に紛争の最前線で取材をされている姿を拝見しており、ジャーナリストとしての姿勢を尊敬するとともに、私には、怖くてとても踏み込めない現場に足を運ぶ行動力と勇気に畏敬の念を抱いていました。

シリアには行ったことがない上に詳しく情勢を分析していたわけでもないので、ネットに溢れているシリア関連の動画と、海外メディアが伝えているニュースから想像するしかないのですが、様々な不確定要素が複雑に絡み合う、全ての判断が非常に難しい現場だったのではないかと思います。

山本さんの映像にもあったように、市中にはまだ一般市民が残って生活しているうえに、見た目で政府軍と反体制軍の区別がつきにくい。さらには空爆もあり、恐らくスナイパーもいたことでしょう……。
どこが比較的安全で、どこが非常に危険なのか――。

その境界があまりにも曖昧で不確定、さらに刻々とその状況すらも変化する現場。

山本さんが最期に撮影された映像を拝見し、「もし自分がこの場にいたら?」と想像すると、経験豊富な山本さんですら読み切れなかった危険な兆候を、サラリーマンを兼業し年に一度しか取材に行かない私が感じ取れるはずもなく……。

恐怖で手に嫌な汗が噴き出し、自身の死とその死が周囲の方々に及ぼす影響について沈思しました。

紛争地を取材するフリージャーナリストという職業は派手なイメージが強いかもしれません。
しかし実のところ金銭面でも精神面でもなかなか厳しく、単純に職業として考えた場合、あまり割に合わない仕事です。

「ではなぜ、好き好んで危険な現場に足を運ぶ必要があるのか?」。

他の紛争地を取材するフリージャーナリストに確認したわけではなく個人的な考えですが、それは誰もが心に持つ「幸福という名のパズル」を完成させるために必要なピースが、偶然そこにあるからではないかと思います。

「幸福」というのは非常に難しい物で、人それぞれ基準が異なる上に時間の経過と共に変化し続けるため、紀元前から世界各国の偉人賢人たちがその解明に取り組んできたにも関わらず、未だ「こうすれば一生幸福でいられる」という明確な手法はありません。

家族・恋人・友人・社会的地位・自己顕示欲・お金・健康・安定・刺激・使命感などなど、人は各々「幸福という名のパズル」を完成させるためのピースを無数に持ち、さらに個々のピースは「人によって」さらには「その時々」で、その「大きさ」や「形」が変化します。

その「幸福という名のパズル」を完成させるために必要な「最大のピース」が、偶然、紛争地と呼ばれる場所にあり、たまたま「伝える」という形だった人が、紛争地に赴くフリージャーナリストとなるのではないかと私は思っています。

昨今の紛争は様々な要素が複雑に絡み合いその要因は複雑化していますが、いまこの瞬間もシリアを始め銃弾が飛び交う最前線では、戦う人々双方に信じる正義があり守る物があり、その思いが悲しみと憎しみを生み出し続けています。

今回自問自答を続ける中で、「紛争地取材を止める」という選択肢も考えました。
しかし考えれば考えるほど、私にとっての「最大のピース」が――「人の手により生み出され、人の手により解決可能な『理不尽』の根絶」――である限り、そして今まで取材を受けてくれた方々を裏切らないためにも、やはり紛争地取材は避けて通れないと再認識するに至りました。

どんなに注意しても準備しても、100%の安全を確保することは不可能です。でも可能な限り100%に近づける努力をし、今まで以上に「無事に帰国する」という強い意志を持って、自分のペースで取材を続けていこうと改めて決意しました。

「なぜ紛争地取材を続けてるんですか?」、「数多くの紛争地を見て、人間とは何だと思いましたか?」、etc。
業界の末席に名を連ねさせてもらっている身として、山本さんに色々お聞きしたかったです……。

山本さんの夭逝に心から哀悼の意を表します。

エボラ出血熱

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隔離病棟入り口

エボラ出血熱、感染容疑者隔離病棟入り口 (撮影/ウガンダ 2001年)

ウガンダで三度目のエボラ出血熱が発生しています。

バイオセーフティーレベルで最も危険なレベル4に分類されるエボラ出血熱は、未だ自然界の宿主が分からず、有効な治療方法もありません。

その 感染経路は接触感染だといわれていますが、フィロウイルス科のレトロウイルスであるエボラウイルスは、その性質上、自らを複製する際にコピーミスを起こしやすく、突然変異を起こし飛沫感染になる可能性もあり得るそうです。

私は、初めてウガンダでエボラ出血熱が発生した2000年に、アウトブレイクの中心地だった町に入ったのですが、銃弾が飛び交う戦場とは全く異なる「眼に見えないウイルスの恐怖」を肌で感じ、「なんでこんな所に来ちゃったんだろ……」と心の底から後悔しました。

しかし取材を通して、「感染の恐怖と戦いながら隔離病棟内で感染容疑者を診察する医療従事者」、「WHO(世界保険機構)やCDCなどの国際機関の迅速な対応」、「感染拡大を防ぐため地域を巡回して聞き取り調査を行ったり、病院や医療スタッフのサポートなどを行うウガンダ各地から駆けつけたボランティアの方々」など、「人間vs感染症」の最前線を見させてもらい、そのシステマチックな対応と人々の勇気に感銘を受けました。

残念ながら今回もすでに14名の死亡者(感染者20名/2012年7月30日時点)が出てしまい、内9名は一家族とのこと……。
おそらくその原因は、2000年のアウトブレイク時も同様のケースが多数あったのですが、現地の風習として行われている死者との最期の別れとして行われる「口づけ」だと思われます。

ウイルスの活動が最も活発になるのは亡くなった直後であるため、その「口づけ」により死者の表皮から感染してしまうのです。

「正直なところ、何人かの人が亡くなるまでその症状がエボラだとは分からない」。

2000年の取材時に、現地で治療をしていたある医療関係者から聞いた言葉です。事実、エボラだと判明するまでに診察・治療した医療関係者が、今回も2000年も亡くなってしまっています。
「口づけ」の風習も同様で、その疾病がエボラ出血熱だと分かるまで防ぎようがないでしょう。

飛行機を始めとする高速移動体が網の目のように張り巡らされている現代。
アフリカのウガンダで発生したエボラ出血熱が他国に飛び火する可能性はゼロではないと思いますが、各国で可能な限りの準備は行っています。

(日本も2000年のアウトブレイク時に、ウイルス性出血熱の診療を目的に初めて日本人専門家5名を現地に派遣したり、各空港で感染症対応訓練を行ったりしています)

しかし、国の対応だけではウイルスは防ぎきれません。
最も重要なのは、我々一人一人が日々注意することです。

「一般的にできる最大にして唯一の予防方法は、手洗いだね。外出先から帰ってきた時、食事の前、トイレの後、こまめに石けんを使い手を洗う事こそが、誰でもできる最も効果的な予防だよ」。

2000年のアウトブレイク中に行われたプレスカンファレンスで、「私たち一般人がウイルスから身を守るには、いったいどうすればよいのか?」とのウガンダ記者からの質問に対し、最高責任者だった厚生大臣が返した答えです。

子どもの頃から耳が痛くなるほど聞く台詞ですが、アウトブレイク中に聞くととても重く、以来私はこまめに手洗いをするようになりました。

現在も現地では多くの方々が感染拡大を防ぐため、最前を尽くしてくれています。亡くなられた方々に哀悼の意を表すとともに、今も最前線で戦い続けている関係者の方々の無事と、一刻も早い終息を心から祈ります。


【関連リンク】
Gallery~「見えない暗殺者-エボラ出血熱」

4月6日

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タンザニアからの帰還難民

タンザニアから帰還してくるルワンダ難民 1996年

もう一昨日になってしまいましたが、4月6日は私にとって忘れられないない日です。
18年前の1994年4月6日。アフリカのルワンダで同国と隣国ブルンジの大統領が乗った飛行機が撃墜されました。当時アルバイトをしていたホテルの食堂で偶然見たそのニュースで私の人生は大きく変わったのです。

「両国大統領を始め搭乗者は全員死亡。犯人は分かっていません」と冷静に語るアナウンサーの声を聞きながら、エチオピア・モロッコと取材に大失敗し「もうアフリカはこりごり」と思っていた私は、その時「またこれで戦争か」程度にしか感じず、全く関心がありませんした。
しかしその一年後、何となくアフリカが恋しくなった時、なぜか頭にその時に見たニュース映像が浮かんだのです。

そして内戦終結から1年半ほど経った1995年12月。
見えない何かに導かれるようにルワンダの地を踏み、現地で活動していた日本人の方々や、虐殺を逃れた人々、荷担した人々、そして殺害された人々に多くの事を教えられ「ジャーナリストをライフワークにする」と思い定める事が出来たのです。

あれから18年。
「アフリカの奇跡」といわれる発展を続けている現在のルワンダには、虐殺記念館などを除き、目に見える形で当時の傷跡はどこにも残っていません。
しかし人々の心から「あの悲しみと苦しみ」を消し去るには、まだまだ時間が必要だと思います。

残念ながらルワンダを含むアフリカ大湖地域は、ここ最近色々と焦臭いニュースがまた多くなってきていますが、18年前の悲劇を繰り返さないよう「自分にできることを精一杯やらなければ」と思いを新たにするとともに、ルワンダ内戦で亡くなった方々のご冥福を心よりお祈りします。

映画「マシンガン・プリチャー」

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2月4日から公開される映画「マシンガン・プリチャー」へのコメント依頼を配給会社の方から頂き、昨日、原稿作成のため送付してくださったDVDを拝見しました。
(同映画の重要な要素の一つとして、私が2000年から継続取材しているウガンダのゲリラ組織LRA〔神の抵抗軍〕が出てくるため、お声かけしてくださったようです)

簡単に映画の内容をご紹介すると――
「あるきっかけで神を信じるようになり更生した元麻薬売人のアメリカ人が、更生の過程で偶然知ったLRAの脅威に晒されている子どもたちを救うためアフリカにわたり、様々な紆余曲折そして葛藤を抱えながらも自分の信念を信じ、自信の手に銃を持ち戦うことで子どもたちを救い・守る」
というストーリーです。

このように書くと、正義の象徴である主人公が悪と戦う「よくある勧善懲悪な映画」と思われてしまうかもしれませんが、この映画が違うのは、主人公は決して正義ではなく、そしてその行動も「正しいとも間違っているとも言い切れない」こと、そしてすべてノンフィクションであることです。

実は私もウガンダ北部の取材中に主人公が感じたのと同種の無力感や葛藤を抱いた事があり、「人類なんて滅びてしまえばいいのに。ジャーナリストなんて仕事、誰も救えないじゃないか。もう死んでしまいたい」と世界と自分に絶望したことがありました。

幸い気持ちが底の底に落ちきる前に、リハビリセンターで「元子ども兵士」だった子どもたちの「生きたい」「なんとしても生きるんだ」という姿をに救われ、今も生きながらえ、細々とですがジャーナリスト業を続けることができています。

そのためこの映画にはとても感情移入ができ、「自分が正しいと思えることを見い出し、実際に行動に移した」彼に対し(賛否両論はあると思いますが)、尊敬の念と敬意を抱きました。

一人の男の生き方を通し、「今の世界が抱える矛盾」・「人間の命」・「人生の歩み方」を考えるきっかけになる、とても素晴らしい映画です。
(感情移入しすぎているため表現がちょっと大げさかもしれませんが…)

もし興味をもたれた方がいれば、是非見ていただきたいと思います。

【映画公式サイト】→「マシンガン・プリチャー」

【Photo Gallery 】→子ども兵士

 

(追記)
映画「マシンガン・プリチャー」に関してもう一つ。

エンドロールでご本人の顔写真が出てくるのですが、それを見て遠い私の記憶の中でずっと引っかかっていた事が解決しました。

あれは2002年か2003年頃だったと思うのですが、当時のウガンダ北部はまだLRAの脅威が色濃く、夜になると1万人を超える子どもたちが襲撃を恐れ周囲の村から北部最大の町「グル」に避難してきており、日中でさえ、グルの町から出るには軍のエスコートが必須という時代でした。

ある日の夕刻、取材を終えてホテルに戻る道中で立ち寄ったキオスクで、砂糖やソーダ・ビスケット・クッキングオイルなどを「超大人買い」してピックアップトラックの荷台に次々と積み込む、丸太のような腕に入れ墨をした人相の悪い一人の白人と武装した黒人の集団と出くわしました。

とにかくその雰囲気が異様で、「目を合わせちゃいけない…。目があったら何されるか分からない」と怯えた私は慌てて車に戻り、その一行が最も危険だといわれていたスーダン国境に続く道に、夕闇の中荒々しく立ち去って行くのをサイドミラー越しに見送ったのです。

その後キオスクの主人に尋ねてみると、「ああ、あれはどこにも所属しない個人の軍隊みたいなもんだよ」といわれ、「賞金稼ぎみたいなもんか。それにしてもこの時間から町の外にでるなんて自殺行為じゃない?いったい何者なんだろ?」と、ずっと頭の片隅に引っかかっていたのです。

エンドロールの写真、まさしくあの時に見た人相の悪い白人、チルダースさんご本人でした。

軍人でもめったに感じることのない「触れただけで叩きつぶされそうな圧倒的なオーラ」、映画を見て納得しました。

人間の命の重さ

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アフリカで取材をしてきて「過去に何度も何度も直面してきた壁」で、自分なりの答えがあったはずなのに、また迷いの袋小路に入ってしまいました。

実は先週の火曜日(11月30日)夜、滞在中の専属ドライバーとしてウガンダで旅行会社を経営する11年来の友人スティーブンが付けてくれていた男性が、私と別れ自宅に戻る道中、自動車強盗に襲われ右後頭部頭蓋骨陥没骨折の重傷を負いました。

彼には以前も何度かドライバーとして仕事をしてもらったことはあったのですが、身長165センチくらいで痩せ形、ウガンダ人としては小柄な部類に入る彼の印象は、無口なことも相まって正直あまり残っていませんでした。

しかし、今回会った時「つい先週、二人目の子どもが生まれたばかりなんですよ」と嬉しそうに語る彼の表情からは無垢な幸せがあふれ出ていて、「この人は信頼できるかも」と好印象を抱きました。 事実、事故に遭うまで約10日間毎日一緒に行動していたのですが、その仕事ぶりは非常にまじめで待ち合わせ時間にも正確。日当以上のお金を要求することもなければ一度もお釣りを誤魔化した事もない。そして肝心の運転技術も悪くない。とても信頼の置けるドライバーでした。

事件があった日、私はいつジェネラルから連絡がきても良いようにホテルで待機していたのですが、ホテルの立地がゴミゴミした場所にあるため、生憎ホテルおよび周辺にも駐車場がなく、彼には車を止めておける少し離れた郊外で待機してもらっていました。

時間が18時半になり、もう今日はダメだと判断した私は日当と明日ホテルにくるためのガソリン代を渡すため彼にホテルに来るよう伝えました。しかしいつもは10分程度で到着の連絡があるのにその日は30分以上経っても現れません。

事故でもあったのかと心配になり電話をかけると「すいません、なんか凄い大渋滞で全く車が進まないんです。急いだ方が良いなら、車はどこかに停めてバイクタクシーで向かいます!」と、周囲で鳴り響くクラクションに負けないよう焦った声を張り上げていました。

後はご飯を食べて寝るだけだった私は「特に用事があるわけでもないから、こちらは何時でも良いから、あなたに便利な方を選んでもらって良いよ」と伝え、彼は車でホテルに来ることを選びました。

彼がホテルに到着したのは19時45分。 もし今日ジェネラルに会うことになっていた場合、連絡から到着まで1時間以上かかってしまっては待機してもらっている意味がないので、「すいません、遅くなって。まったく車が動かない大渋滞で――」と謝罪する彼の言葉を遮り、「どこにいたの?こんなに時間がかかるといざというときに困るから、もう少し待機場所を考えて」とちょっと強い口調で伝えました。
そして20時前、日当とガソリン代を渡し翌日9時にホテルに来るよう指示し別れたのです。

しかし翌朝、9時どころか10時になっても彼は現れず、しかも何度電話をしても携帯電話が繋がりません。

「遅刻は仕方ないけど電話をずっと切っているなんて。残念だけど、彼もよくいるドライバーと同じだったのかな……」と失望した私は、彼の到着をあきらめ、タクシーでジェネラルの元に向かいました。

ジェネラルとスムーズに会え、さらにソマリア行きの許可も降り気分が良くなった私は「まあ、一回くらいは許してあげよう」と、14時頃、ちょっと遅いランチを取りながら「午後からで良いから来て」と伝えるため、再度彼の携帯に電話をしました。 が、依然「この電話は圏外にあるか電源が入っていません」というアナウンス。

「なにやってるんだろ?何か急に他の仕事でも入ったのか、それとも携帯を無くしたのかな?」
ふと気になり、何か知ってるはずだと思いスティーブンに電話をしました。 そしてそこで初めて、彼が前夜の帰り道自動車強盗に遭い、生死の境を彷徨っていることを知ったのです。

「多分彼はもうダメだと思う。深夜2時頃、路上に倒れてる彼を警察が発見し、病院に運び込んだそうなんだ。襲われたのは昨夜21時頃らしく、どうやら強盗を車に乗せてしまい走行中に大きな石で殴られたらしい。車は近くの路肩に突っ込んだ状態で発見されたんだけど、フロントガラスは割れフロントグリルもボロボロ。だから強盗も車を持って行くのはあきらめたみたいだ。ただ、彼が持っていた現金や携帯など金目の物は全て奪われてたよ。そして運転席と後部座席に彼のものと思われる大量の血溜まりが……。意識もないし医者も多分ダメだといってる」そう話すスティーブンの声は今まで聞いたことがないほど重く沈んでいました。

驚くと同時にまず最初に私が考えたのは「なんで車強盗の危険性が高いことが分かり切っている夜のエンテベロードで彼は車を止めたのか?」ということでした。

その行為は自殺行為であると、外国人の私でさえ知っています。地元民の彼にとって、そんなことは常識過ぎる常識のはず……。しかも知らない人間を車にのせるなんて、絶対にあり得ない。

「なぜ?なぜ?」頭の中で疑問ばかりが押し寄せてきました。

「私にもなぜ彼が夜のエンテベロードで車を止め、知らない人間を乗せたのか分からないんだ。ただ同じ日に数件同様の事件が起きて被害者が出ているから、組織的な犯行みたいだよ」。
スティーブンを始め警察も犯人にまったく目星はついておらず、今もすべては謎のままです。

残念ながらウガンダだけでなくアフリカの大半の国では、日本や他の先進国のように一般の人々が十分な緊急治療を受けることは、ほぼ不可能です。 彼の場合も同様で、病院に運び込まれた時に診察した医師は、意識のない状態に加え陥没した頭部の傷口と大量の出血などから「もう助からない」と判断し最低限の処置をしただけだったようです。

しかし不幸中の幸いで、他の被害者がバールで殴られていたのに対し彼は大きな石で殴られただけだったため、なんとか翌々日には持ち直し危険な状態を脱しました。

ところが今週になり、彼が頭部の異常を訴えたためCTスキャンを撮っ たところ、初期治療が不十分だったため、手術をして問題を取り除かないと四肢に後遺症が残ったり、最悪の場合は容態が急変する可能性があるということが判明してしまいました。

保険制度が浸透していないウガンダでは、その手術に要する費用は平均年収(約460ドル/世銀 2009)の数年分にもなり、とても彼の家族が負担できる金額ではありません。 しかし、日本人の私にとっては、気軽に出せる金額ではないものの、絶対に不可能な金額ではなく……。

この数日間色々と考えた結果、詳細な情報を医師に確認した後、彼の手術代を負担することにしました。

と、この結論にまっすぐ辿り着いたなら自分的には救われたのですが、数日悩み、さらに決めた今もまだ心がモヤモヤしています。

一年に一度しか来られない取材で身動きが取れなくなり、さらに16年間毎年続けて来たルワンダ訪問をあきらめる――。

頭では、「一人の人間の人生」と「わずか一度の取材」では、どちらが大切なのかすぐに判断できます。 しかし……。

今回の決断において最大の要素となったのは「私の決断がもう少し早ければ、彼は事件に出くわさなかった可能性が高い」「長時間一緒に過ごし情が沸いていた」「生後間もない赤ちゃんと不安に崩れ落ちそうなご夫人と会った」の3点です。

しかし――、 もし事件に巻き込まれたのが彼ではなく、数度顔を合わせただけの人だったら? もし彼に家族がおらず独り身だったら? もし彼の事故が自分と全く関係ないところで起きていたとしたら? もし最優先で考えている取材をあきらめる必要があったら?

延々と「if」が頭に浮かび、久しぶりに心の奥底にある薄暗い袋小路で、自分の本質と長時間向き合いました。

結局、明確な結論は今も出てませんし、永遠に出会えない可能性が高そうですが、改めて「アフリカ」と関わっていく難しさと、「アフリカ」に来て取材している意味を考えさせられました。

今はとにかく、彼の手術が無事に終わることを心から祈っています。


■地元の新聞に掲載された記事。一枚目の写真が彼
(※傷ついた被害者の方々の写真がそのままの姿で掲載されているので、血が苦手な方はクリックしないでくだい)
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